幸せの正体

★【pro.Flyaway】副代表・果里(かりん)です♪

 

「ここを見ていると、この子たちが
みんな幸せになってほしいって、
心から思うわ」

 

うちの母はガラス越しの新生児室を前に
よくこう言います。

 

私はあの空間が好きで、
婦人科などにかかる際、
あえて2階に上がってみたりします。

 

ガラスの向こうには、
可愛らしい生まれたての命。

 

なんとも心満たされる光景です

 

そこにいる自分の子供を見る時は
また格別な瞬間ですが、
そうでなくとも
ずっと見ていたくなる場所です。

 

「みんな幸せになるために
生まれてきたんだよ」

 

そうではないと考える人も
いるかもしれない。
でも、私は子供たちに
そう教えてあげたいです。

 

しかし
幸せってなんでしょうね。

 

たとえば健康であること?
たとえばお金持ちになること?
たとえば理想の人と結婚すること?

 

なりたい自分になって夢を叶え、
思い描いた理想の中で
生きていたら、
きっと誰しも幸せでしょう。

 

しかし理想を叶えれば幸せである
ということは、

 

“理想的な環境がなければ幸せでない”

 

ということ。

 

あくまで自己の理想の為に
整えられた環境は
“より”幸せである
ための付加価値であって、
幸せの基準そのものであっては
ならない。

 

なぜなら幸せは感じるものだから。

 

怪我をしたら。
病気になったら。
貧乏だったら。
大事な人を亡くしたら。

 

これらを不幸な出来事 、経験上、
または知識の上で認識しているからこそ、
脳はこれらのことがらを不幸だと判断します。

 

でも実際は、
辛かったり・悲しかったり・苦しかったり

 

そこに居たくなくなる感情が
沸いてくるために忌避したい状況、
その総称が”不幸”であり
不幸という感情は存在しません。

 

ただ、
幸せは在ります。
幸せは感情です。
あたたかく、
なんとも言えず心地よい、
満たされる想い。

 

“これは幸せだ”という認知から成る
幸せも、結局はその思考によって
高揚を感じている状態ですから、
一般に幸せと判断される
要素を自分の人生にプラスしていくのは
幸せであるためにとてもいいことだと思います。

 

しかし本来幸せとは、
どんな状況下でも
ほんの小さな事柄からも
心ひとつでいつでも感じることが出来るもの、
いつでも共に在れるものです。

 

けれど、
生きるうちに接する多くのストレス、
その結果
自分には幸せになる価値がないだとか
こうでなければだめだとか
不幸の数を頭の中で増やして増やして

 

辛いこともだいじょうぶとか無理して
前向き思考でごまかして
ぜんぶ感じないようにして
そうしたら幸せがわからなくなっちゃった

 

幸せってなんだっけ、
頭ではわかってるけど
あんまり感じないよ。

 

なんてことが、
あのガラス越しの清らな世界の先にも
待ち受けているかも。

 

母の台詞の後には、
こんな言葉が続きます。

 

「この子たちにこの先
どんな辛いことがあっても、
乗り越えていってほしいわねえ」

 

乗り越えるというのは
受け入れるということ。
許すということ。

 

そうして、ダメの数、嫌いの数、
減らしていく。

 

幸せについて
考えることをやめて
感じることを始める。

 

感覚を研ぎ澄ます。

 

あと、私の持論ですが。

 

嫌いの数が不幸の数なら、
ありがとうの数が幸せの数って

 

ちょっと思います。

 

生まれてきた娘の寝顔に
「生まれてきてくれてありがとう」
ってその幸せな未来を願うたび、
失くしたらどうしようってゾッとするくらい
私も幸せです。

 

(^.^)

 

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